バンクーバー在住6年目、世界を股にかけるフリーターちひろうさぎの日記と映画レビュー。

2014/02/16

Cinema Review: The Act of Killing

尊敬する柳下毅一郎さんが2013年のベストに選んでいたThe Act of KillingがこちらではもうDVDになったので鑑賞。日本では昨年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭(行きたかったなー!)で『殺人という行為』の邦題で上映されていて、今年4月に『アクト・オブ・キリング』として一般公開されるようです。

劇中のこの巨大な魚はインドネシアのトバ湖の近くにある元レストランだった建物で、
治安悪化による観光産業衰退の影響で今は廃墟なんだって

The Act of Killing(2012)『アクト・オブ・キリング』 2014年4月 日本公開予定 公式サイト imdb 予告編


1965年、インドネシアでクーデターが起こった。軍の独裁支配の下、組合メンバー、識者、中国人はまとめて「共産主義者」と呼ばれ処刑された。準軍事的集団やギャングによる組織的大量虐殺の被害者は100万人に及ぶという。映画は冒頭にこんな言葉を引用する。「殺人は禁じられている。ゆえに殺人を犯したものは罰を受ける。ただしトランペットの音色に合わせて大量の人間を殺した場合を除いて。―ヴォルテール」そう、インドネシアの殺人者たちは罰せられるどころか国のために戦った英雄として今なお称えられているのだ。彼らには罪の意識が全くないのだろうか?その手でたくさんの命を奪った当事者に当時の再現映像を作らせるという手法でもって、人を殺すとは何か、正義とは何か、さらに演じるとは何かをあぶりだす画期的なドキュメンタリー。タイトルのActは行為とも演技とも訳される。(日本公開タイトル、原題に戻して正解だね。)


「最初は殴り殺してたんだけど血を片付けるのが面倒だろ?ひどい匂いだし。だからこうしてワイヤーで首を絞めるほうがはかどるんだ」 1000人は殺したと豪語するアンワー爺さんは虐殺の現場を嬉々として紹介する。

あるものは言う。「戦犯の定義を決めるのは勝者だ。俺は勝者だから俺が正義を決める。」善悪の基準はうつろいやすいもので、ある文脈―一番簡単な例でいえば軍の中では殺人は正義だ。悪は善と同じように人間に備わった普遍的な性質だが、誰の心にも人を殺せる才能が眠っているとしたらなんとおそろしいことだろう。

映画に登場する数々の悪人の中で最も醜悪だと思ったのは反共産主義運動に加担した新聞社の男だ。ヘイトスピーチを行い、また社のオフィスで人々を尋問しては「有罪」としてギャングや軍に引き渡していた。「俺は人殺しなんかしねえよ。する必要がないだろう。俺はウィンクする、後の始末はあいつらがやるさ」彼の罪悪感を麻痺させているのは「自分はそのとき正しいと思った事、やるべき事をやっただけ」という「仕事」の意識だ。これがハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」だろう。直接手を汚していないから悪くない。命令だから殺した。人殺しが人道に背くことは誰でも知っている。罪の転嫁のバトン競争で世界は回り、一部の人間だけが運悪く罰を受ける。

「映画の後なんか、歌って踊って、そんなテンションのままハッピーに殺しをやったもんさ。」チンピラ業の一環として映画のチケットダフ屋もやっていたアンワーはなかなかのシネフィルで、マーロン・ブランドやアル・パチーノ、ジョン・ウェインをフィーチャーしたギャング映画に影響を受けたという(ワイヤーで絞殺する方法も映画にインスパイアされたらしい)。撮影にはノリノリだ。

あこがれのクレーン撮影

「ちょっと小道具を用意したよ。
やっぱギャングってのはこう、帽子を被ってるもんだろう」

被害者側も加害者側もおそらく生まれて初めてカメラの前で演技するであろう人々が、あれ…これはシャレにならないぞという空気を即席で作り出してしまうのには驚いた。筋書きのないストリートの寸劇に子供は泣き叫び、大人は発狂し、役からこちらの世界に帰って来られない人間は放心状態である。たとえ演技(act)であっても行為(act)は感情を呼び覚ます。演じる役が変われば主従関係は逆転する。

アンワーは小さく打ち明けていた。「悪い夢を見るんだ。」意識下に潜んでいた不穏な黒いシミは撮影が進むにつれ徐々に彼の心を蝕んでいく。カメラは彼の目線ひとつ逃がさず記録する。映画は彼を追い詰める。「共産主義者」を演じさせるのだ。彼そっくりの人形の首を切るとにせの血が溢れる。現実では仲間であるギャングに拷問され、目隠しをされ、首にワイヤーをかけられる。カットの声がかかっても彼はもう二度と以前の彼には戻れない。「こわかった。拷問された犠牲者の気持ちがわかったよ」「いいえ、その人たちはあなたよりもっともっと怯えていたはずですよ。あなたはこれがただの映画だと知っていますよね。あなたが殺した人たちは自分が殺されると知っていたんですよ」監督は彼が泣き出すのを待っているかのようだ。そして改めて彼を虐殺の現場に連れて行き、犯した罪を詳細に再現するよう求める。激しい眩暈に嗚咽し、立ち上がることもできない彼をカメラは追い続ける。なんと悪趣味なサディズムだろう!「人がなぜナチの映画を観るかわかるか?サディズムさ。ナチの映画よりサディスティックなものを作ろう、作れるさ。だってこれはフィクションじゃないんだ。俺は本当に人を殺したんだ」冒頭でこう語ったのはアンワー自身である。善悪や主従といった一見磐石に見える基準はいとも簡単に転覆するものなのだ。

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