心の底からコンビニでバイトしたがる人間なんかいない。誰だって妥協を重ねてそこにたどり着き、「このままでいいのかなあ」と思いながらサルかロボットでもできる作業を日々こなしているだけ(何の危機感も感じていないとしたらそれこそ悲惨だ)。コンビニ店員から映画監督になったケヴィン・スミスはフリーター界の星である。
彼の文章の才能は子供の頃から抜きん出ていた。高校時代にはブルース・ブラザースに憧れ、コントの台本を書いて人気者になった。当時組んでいたお笑いトリオはのちの『クラークス』組の中核になっている。ちなみに彼はこの頃から脚本絶対主義で、アドリブは絶対に許さなかったという。例のコンビニ時代、隣のビデオ屋バイトと映画を観て暇をつぶしていたときにリンクレイターの低予算映画『Slacker』に出会い、もともと映画オタクのスミスは「俺にもできる!映画が撮りたい!書きたい!」と急にひらめいた。そこですぐさまカメラを手に取り、ではなく、まず映画学校(バンクーバーフィルムスクール!)の短期コースを受講した。ここで『クラークス』のプロデューサーになるスコット・モズィアに出会うが、本人はコース途中で退学。地元に戻り一ヵ月で164ページの脚本を書き上げた。舞台はバイト先のコンビニ、クイック・ストップ。オーナーに頼み込んで撮影の許可ももらった。オーディションをして役者を集め、複数のクレジットカードを限度額いっぱいまで駆使し、あとは宝物のマンガやフィギュアを売って得た資金でクランクイン。『Slacker』の制作費が二万三千ドルと言われていたからだいたいそれくらいあれば撮れるんじゃないかという計算だが、もちろん出費は少なければ少ないほうがいい。鍵穴にガムが詰まってシャッターが開かないという設定は深夜閉店後のコンビニ店内で一定の照明で撮影するため。エキストラには知人に頼んだが、ドタキャンが頻発したためによく見ると一人二役、三役こなしている役者がいたり監督の家族が出ていたりする。というか、そもそもプロの役者は主役のダンテと彼女のヴェロニカ、元カノのケイトリンくらいで後はクイック・ストップに溜まっていた仲間だ。プロにしかできない芝居と素人にしかできない芝居の対比が面白い。編集はビデオ屋に泊まり込みで行われた。ビデオの棚に引っ掛けたフィルムをハサミで切ってセロテープで留めていく。
せっかく完成したので客に見てもらおうとなけなしの500ドルを払って小さな映画祭にエントリーしてみたところ、まばらな観客の中にいた偉い人の目に留まりサンダンス映画祭に招かれ高い評価を得、さらにミラマックスが映画を買ってくれたので無事クレジットカードの借金を返済できたスミスであった。DVDボックスに一緒に入っていたドキュメンタリーSnowball EffectにしてもJohn Kenneth MuirによるバイオグラフィAn Askew Viewにしてもお金や配給の話が続き、一般人が映画を製作する難しさが伺える。YouTubeもない時代だったらなおさらだろう。コンビニ店員から大出世を果たしたものの『クラークス』に続いて撮った『モール・ラッツ』で大コケ、自身の恋愛体験をヒントにしたほろ苦いラブコメ『チェイシング・エイミー』(傑作)で一皮剥けたと思いきや、『ドグマ』では過激な宗教ネタで敵を増やし、セス・ローゲンら大スターを起用した『恋するポルノ・グラフィティ』でまたコケる、となかなかうまくいかないみたい。とはいえ『クラークス』のキャラクター、ジェイ&サイレント・ボブのスピンオフ『ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲』なんか観るとなにしろ楽しいのが一番だよなあ思う。こういう地元の仲間で映画を撮ってみたらなんか成功しちゃって、有名になってもずっと一緒に映画やろうな、というのは大変ときめく(ジョン・ウォーターズとか)。彼の作品は全部地元付近を舞台にしていて、たとえば「俺の先輩とあいつの姉ちゃんが~」といった地元トークで別の作品のキャラクターの名前が出てくるなど少しずつリンクしている。原点である『クラークス』のネタはもちろん鉄板。
滅多に喋らないサイレント・ボブ(左)を演じているのがケヴィン・スミス監督。 ただのおもろい友人で演技は当然初挑戦のジェイ(右)はなかなかカメラに慣れず苦労したそう |
『帝国への逆襲』ヒッチハイクでハリウッドへ向かう二人。 スラッカーだってやるときはやるのだ |
2012年末のツイートで『クラークス3』(2014年1月現在未完成)をもって映画監督業を引退すると宣言したスミスだが、『クラークス』10周年の時にはこう語っている。「監督業は続けるかもしれないし、辞めるかもわからない…。その決定権っていうのがそのうちぼくの手から離れて行ったりするもんなんじゃないかしら。だけどあのクソコンビニへの思いは絶対に変わらない。この先何が起ころうと、クイック・ストップで過ごした時代はぼくの人生の中で輝き続けるだろう。当時は抜け出したくて仕方なかったあの場所が今は恋しいよ。思い出補正ってやつかな。」まあ、コンビニ映画で成功したんだからそりゃそうだろう。大半の人にとってコンビニバイトを愛するのは難しい。
『クラークス』の主人公ダンテはフリーターの特徴を的確に捉えたキャラクターだ。学生の彼女に「学校に戻ったらいいのに、こんなコンビニでくすぶってもったいない」とハッパをかけられるも生返事。彼の様子を見ていれば彼が完全な馬鹿でないことは明白で、きっと学校の成績なんかもそこそこいいタイプだ。「真面目系クズ」みたいな。文句ばかり垂れているくせに状況を変えようとはせず、怒ってもいい場面でなぜか自分が謝る。こういう無気力な若者は『クラークス』が製作された90年代初頭にはジェネレーションX、最近ではfloating generation(浮遊する世代)とか呼ばれていて、一定の層として認識される。でっかな頭を抱えたまま職にあぶれてしまう、諦めることに慣れすぎた子供たち。
「閉店だよ」と垂れ幕を投げる、なんだかんだでさわやかなラストシーンが印象的な『クラークス』だが、実はお蔵入りした本当のラストシーンがある。それはなんと、何者かが店内に押し入り突然主人公ダンテを撃ち殺すというもの(YouTube)。ケヴィン・スミスは自らのオールタイムベストである『ドゥ・ザ・ライト・シング』を意識したらしいが、カットして正解だろう。台本の時点で非難轟々で、主演のブライアン・オハーランもハッキリ「やりたくない」と言ったらしいが、それでも撮影され公開直前までカットされずに残ったこのシーンには、フリーターならではの願いが込められている。このままでいいわけないけど自分から変化を起こすのはいやだし、何か劇的な変化が勝手に起こってこんな日々から脱出できたらいいなという、願いと呼ぶにはあまりに弱々しい漠然とした希望。
クイック・ストップに現れたおかしな客。完璧な卵を探して全てのパッケージを開け、触ったり口に含んだり、最終的には絶望して泣きながら壁に投げつける。その場に居合わせた女性客(ちなみに演じるのはスミス監督の実姉)は彼を見てコンビニ店員にこう告げる。「あの人、ああ見えてスクール・カウンセラーね。考えてもみてよ、もし君の仕事がカウンセラーなんかと同じくらい意味ない仕事だったらやっぱり気が狂うと思わない?やりがいのある仕事をするのは大切なことなのよ。」こう言ったらさすがにカウンセラーの人は怒るかもしれないが、コンビニのレジもカウンセラーも給料と福利厚生と世間体は多少違えどその本質が無意味であることに変わりはない。気が狂わないように、頭を麻痺させてやり過ごすだけ。あるいは人生の大半を占め、死ぬまで続く無意味な仕事に自分なりの意味を見出すだけ。『クラークス』はそんなささやかな前向きを踏み潰すような辛辣な台詞を突きつける。「誰も無理強いなんかしてねえよ!自分の選択でここにいるくせに文句ばっかり言って、何でも人のせいにして」「お前が店番しなきゃ世界が終わるとでも思うか?サルでもできるコンビニのバイトをたいそうな使命みたいに勘違いしてるんじゃないか」
あなたが出勤しなくても世界は変わらない。あなたの代わりなどいくらでもいる。だけど、あなたはあなたの選択でここにいる。
さあ、明日も店を開けなくちゃ。
【参考文献】
- John Kenneth Muir, An Askew View 2, Applause Theater & Cinema Books, 2012
- 10周年記念DVDボックス『Clerks X』 付属のブックレット
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