アーレントの日本語訳がこちらで手に入るわけもなく、当然電子書籍にもなってなかったのでこれを機に英語で読んでみることにした(オリジナル版が英語だと知らなかった。ドイツ語かと思った)。<悪の凡庸さ>は『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』に詳しいと思うが、日本語で少し読んだことのある『全体主義の起源』の方が単純におもしろそうなのでこっちに。翻訳だと一冊5000円の三巻組で学生時代の自分には手が届かなかったけど、ペーパーバック版はぎゅっと一冊にまとまってお値段24ドルとコンパクト。タイトルはそのままThe Origins of Totalitarianism。第三章Totalitarianismから読み始めた。(今のところ)アーレントの議論はやや抽象的だが、そのぶん文章が美しくてかっこよくてウットリする。
携帯カメラで撮ったらなぜか反転してる |
少し前(だいぶ前)に急に日本でドラッカーやサンデルが流行ったけど、アーレントやオルテガの<大衆>の概念なんてそれこそ中二病炸裂で超パンクなのにどうして流行らないんだろう(べつに流行って欲しいわけではないが)。アーレントが映画になったのでこれはブーム来るか?と思ったんだけどなー。
ハンナ・アーレントはナチス時代のドイツに生まれたユダヤ人で、フランスへ逃れ、その後アメリカに亡命した思想家。最終的に市民権を獲得するまで18年間も無国籍状態にあったという。ドイツの大学ではハイデガーに師事し、禁断の愛人関係になるが、そのハイデガーはナチス党に入党…と、そもそも映画のようにドラマティックに生きた人だ。この映画は1963年、彼女がニューヨーカー誌に寄稿したアイヒマン裁判についてのリポートが論争を引き起こした事件に焦点を当てている。
アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊のメンバーで、ユダヤ人虐殺について重要な決定権を持った人物だ。戦後は戦犯として指名手配され、アルゼンチンで身柄を拘束される。アーレントは彼の裁判の取材を切望しイスラエルへと向かった。
法廷には原告の生還者と600万人の失われた魂。憎悪の集中砲火にさらされるアイヒマンは裁判中に暗殺されないよう防弾ガラスの小部屋の中にいる。彼の供述を聞いたアーレントは衝撃を受ける。アイヒマンは悪魔ではなく、ただ命令に従って仕事をこなす小役人だったのだ。彼が死の宣告を下した幾多の命は彼にとっては紙の上の数字でしかない。きっとサラリーマンよろしく上司から依頼を受け、指定された締め切りに間に合わせたりしたのだろう。20世紀は大衆の時代だ。合理化、システム化された巨大な官僚組織の中で自分の仕事をこなすだけの個人はそれがめぐりめぐって強大な悪に加担していることに気づかない。当然悪意もない。というよりは思考も想像もしていないのだ。最もおそろしい悪とは思考しない普通の人間が行う、悪意のない悪―彼女はこれを<悪の凡庸さ>と呼び、現代社会の病理を告発した。
この記事が発表されるやいなや彼女は激しい非難を浴びた。絶対的な悪であると信じられていたアイヒマンを「(あなたたちと同じ)普通の人」と表現したことは彼の擁護と解釈され、そして最も論争を呼んだのはユダヤ人組織がナチスに協力したという事実を暴いた部分だった。ヒステリックで流されやすいのもまた大衆の特徴である(要するに大衆はバカなのだ)。アーレントは「記事を読んでもいない人間が批判しているんだ」と毅然とした態度でいるが、教養ある親友らすら手のひらを返したように離れていき、講義を持っていた大学からも辞職を促される。Thinking is a lonely business―ハイデガーの言葉を思い出すアーレント。
ハイデガーとのエピソードは断片的にフラッシュバックするがなんだかぎこちなく映画に馴染んでいなかった。20世紀を代表する思想家アーレントの人間としてのチャーミングさを強調したかったのかもしれないが夫のブリュッヒャーとやたらイチャついているのはただ居心地が悪いだけ。「考えることの強さ、勇敢さ、痛み」に結論を持っていくならヌルいヒューマンドラマよりも思考することのスリルを見せるべき。アーレントという人が面白いのであって映画はちっとも面白くなかった。主演のバルバラ・スコヴァの演技がよかっただけに残念。
アーレント本人。才色兼備でチェーンスモーカー。 |
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